Menu

母への手紙
点線画像

昨年9月、88歳になる私の母はコロナ下で不運に亡くなった。その後、実家で母の遺品を整理していたら、偶然に母が小学生のときの写真が数枚出てきた。その中に昭和20年の学童疎開先であった埼玉県の寺での写真があった(下記写真1,2)。住持を中心に学校の先生方と一緒に撮った集合写真であった。母は生前、小鹿野町の寺に疎開していたことを懐かしく話すことがあった。 また、私は学生のときに両神山の登山で小鹿野町を通ったことがあって、母にその話をしたら小鹿野町へ行きたがった。
 さて、中央区のホームページを見ると戦争の記録として学童疎開のデータをまとめており、母が在籍していた月島第二国民学校のうち99名が寺院に疎開していたことがわかった。母が疎開していた寺院の場所を知りたいと思い、中央区役所のHP担当者に問い合わせ、調べてもらったのだが寺院の名前はわからなかった。
 こうしてしばらく、亡き母を小鹿野町に連れていくことをあきらめていたが、2023年6月に何と米寿(88歳)を迎えた月島第二中学校出身者の同期会の案内が実家に届いたのである。まさに奇跡である。
早速、同期会の幹事をしているAIさんに連絡をした。AIさんは母を知っていて、かつて松戸市内に住んでいたので10年程前母に会ったことがあるとおっしゃっていた。88歳とは思えないしっかりした話かたであって、母と同様、いわゆるちゃきちゃきの江戸っ子だと思った。AIさんに、母の学童疎開先の集合写真が出てきて小鹿野町の寺の名前を知りたいと言うと、同期会の中に一緒に疎開していた人が居るはずだから聞いてみればわかるだとうと引き受けてくれた。寺の名前がわかったら疎開先の写真を持って訪ねるつもりだと言うと、AIさんは「それは良い供養になる」と言ってくれて、私は電話口で涙ぐんでしまった。
月島第二中学校の同期会があった日にAIさんから連絡があった。同期会に出席された中で一人だけ当時小鹿野町に学童疎開していた方がいたと言う。そして、疎開先は「鳳林寺」、「十輪寺」、「正永寺」と坂本屋旅館であることがわかった。私の母がどの寺に居たのかはわからないが、生前母から十輪寺の名前を聞いたような気がする。いずれにしても写真をもって寺を訪ねていけば特定できるのではないか。特に、下記写真2の背景の立派な松と本堂の破風が決め手になるような気がした。こうして亡き母とともに小鹿野町に行くことになったのである。
P.S. 今後、小鹿野町探訪についてまとめる予定。

学童疎開 小鹿野町
学童疎開 立っている左から2番目が母
学童疎開 小鹿野町
学童疎開 立っている左端だが顔を切り取ってしまった
現在の十輪寺の庭
 現在の十輪寺の庭

Blog 最近の投稿


分野別(過去の投稿)

 自作の志野 年度別


 旅行


 美術工芸、その他


 やきもの