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 日本的なやきもの 志野とは
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このHomePageを見て 連絡をいただく海外の方が多いのですが、内容をどのくらい理解できているのか?はなはだ疑問です。 私は 特に志野についていろいろと思い描いていることを主観的に述べています。その内容は かなり難解だと思っています。
 日本通で知られたドナルド・キーン氏でさえ、その著書(日本人と日本文化 司馬遼太郎と共著 中公新書)の中で次のように述べています。陶器の中で何がいったい「日本的」であるかと聞かれた場合、柿右衛門のようなものではなくて、志野とか、織部とか、そういうものを日本的だと思うのです。ある意味では非常に粗末に見えるようなもの、もちろん、わざと粗末さを出すために努力したのですけれども、きれいな伊万里焼や柿右衛門よりも、あのほうがどうしても日本的なものだと思う。

さて、「わざと粗末さと出すために努力したもの」とはどういうことでしょうか? 志野を例に説明したいと思います。 志野の絵は、上手な画家の絵であってはならないと言われます。漫画”へうげもの”では、古田織部は「肥を投げて遊ぶどうしようもない童の筆による絵」を絶賛して、陶工に同じ絵を茶碗に描かせています。 粗末な筆で?塗りたくるように山や松、〇や△が素朴に描かれます。ここで、稚拙さと素朴さは全く違うのです。
おそらく、たいていの外国の方は、茶碗の口縁のひねり具合や胴の歪、高台の不細工な感じは理解に苦しむのではないでしょうか。例えて言うと、不細工なパグ犬の顔に親しみを感じるようなものです。作り手や愛好者は、整形の美に対して不整形の美と言われる妙味をこの上なく楽しむのです。
釉薬掛けにしても作者の指の痕跡は失敗作ではなく、「無作為の妙味」として喜ばれます。その制作を見ると、長石釉の大かめの中へゴボゴボと無造作に茶碗を沈め、釉薬をたっぷり付けてから、さらっと引き上げる。その時の作者の「息遣い」を作品化できれば、最上の出来と言われます。さすがに ここまで来ると理解に苦しみそうです。まさにオタクの世界ですね。 こういったことが 志野茶碗の世界なのです。

 なお、冒頭の写真の左の茶碗は自作の志野茶碗、右は北大路泰嗣作の瀬戸黒茶碗です。 施釉時の指跡、釉薬がかかっていない△部分とその焼肌、見る方向によって姿が変化する口縁のひねり具合、内側のろくろ目、さらに瀬戸黒茶碗においては内側に釉薬がかからず胎土がむきだしの部分や 引き出し時にできる火ばさみによるかき傷がございます。こういったことが「わざと粗末さと出すために努力したもの」であり、造り手の「こだわり」でもあるのです。

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