Corona下のやきもの造り
令和2年(2020年)は、2月にコロナウイルス(COVID-19)が日本に上陸し、その後 コロナウイルスの蔓延により東京オリンピックが中止に追い込まれるなど大変な年になってしまいました。各地のイベントが中止される中で、幸いにも11月の多治見での大窯焼成は行われることになり、志野茶碗を2椀焼成することができました。今回、新幹線やバスに乗るのが怖くて多治見へ行くのは諦めて、素焼きして施釉したものを郵送し、焼成後12月に作品を送ってもらいました。
写真右の志野茶碗 銘「大筒」は、外径14cm、高さ10.5cmほどでかなり大振りです。しかし、重量は軽く、手取りは良くできています。私の場合、志野は通常 「さや」に入れて焼成するのですが、この茶碗は大きすぎてさやに入らなかったそうです。そのせいもあってか、2か所ほど大きなひびが入っていました。ひびは、内側から外側に貫通しており、水を入れるとじゃじゃ漏れです。私は、登り窯や大窯の焼成によるひびや窯傷を全く気にしません。むしろ、自然の炎によってできた偶然の産物として、また景色として楽しむことにしています。と言っても、このままでは茶碗として使えないので、2か所のひびを漆で継ぐことにしました。内側のひびに錆漆付けを行ってから弁柄漆を塗ったところ水もれは完全に止まったので、外側のひびは景色としてそのまま残すことにしました。
この大きな茶碗は、素焼き後何年も放っておいたものです。今回、急遽この茶碗を選んで焼成することにしました。正面には大胆に大きな水車と千鳥を描きました。裏面の橋の絵は、日本画家 後藤純男の展覧会で感銘を受けた作品「新雪嵐山」を参考にしました。高台の土が特徴的です。私はこのように木べらで削ると「粗く、がさつく」ような土味が好みです。残念ながらこの土はもう残っていません。土は自然のものなので、購入時にかなり当たり、外れがあります。志野釉はしっかりと溶けていて かちんとした硬質な印象で、細かな貫入が出ています。この釉調も私の好みです。全体に緋色はあまり出ていませんが、茶碗の下部の指跡が紅く発色しています。
写真左の志野茶碗は、正面に蛍草を、裏面に薬師堂を描きました。この絵付けは丸っこい姿に合っていると思います。葉室麟氏の大好きな小説「蛍草」から、この絵を描こうと思い立ちました。
さて、歴史を振り返ると、過去に幾度も疫病が繰り返されてきました。その都度、病人を隔離する以外に打つ手はなくて、時間がたって自然に収束するのを待つしかなかったのです。おそらく、体内に抗体ができるまで時間がかかるということですね。
NHKの100分de名著という番組で、デフォーの「ペストの記憶」が紹介されました。1665年、ロンドン市民がもう大丈夫だと思いこんで普通に外出しだして爆発的な流行になってしまったことは、まさに現在の東京の状況そのものです。現在、コロナウイルスの蔓延により日々多くの命が失われています。私は、人間の生そのものが奇跡の狭間にあると思うようになりました。私はあと何年 やきもの造りができるでしょうか。そう思うと 今回の2椀の志野茶碗はとても貴重なものに思えるのです。