向羽黒山城の本丸にて
春の飯豊連峰を望む
阿賀川と門田町
蒲生秀行廟

会津と蒲生氏

2024年6月投稿

向羽黒山城から蒲生秀行廟へ
今回は蘆名盛氏が築いた山城 向羽黒山城跡から蒲生秀行廟を巡りました。 5月の飯豊連峰の写真を撮ろうと思い、向羽黒山城の本丸跡の岩崎山山頂に行きました。陽だまりの山頂にはツツジが咲き始めていました。今年は例年に比べて4月の気温が高かったせいか、飯豊連峰の残雪は少なくやや迫力が欠けます。
 さて、山頂から磐梯山方面を見ると阿賀川を隔てて門田の町並みが見えます。会津若松市街の南にあたります。ここに蒲生秀行の墓があります。秀行は戦国武将 蒲生氏郷の嫡子です。
また、本ページの後半では伊達政宗から蒲生秀行までの歴史をまとめました。

 向羽黒山城の本丸跡(岩崎山山頂)

山頂のツツジ

5月初旬、あちらこちらにツツジが咲いていました。
山頂には背の高い松の木がニョキニョキ植わっています(写真2)。

飯豊連峰と磐梯山

写真1,2は 会津本郷の町並みそして会津盆地の向こうに飯豊連峰を望みます。
写真3は 磐梯山の方角で阿賀川のむこうの町が門田です。

 蒲生秀行廟と館薬師堂
住宅地の中に明るく清々しい公園があって、その端の一画に立派な墓陵がありますます。藁ぶき屋根の廟には鉄製の支柱で支えれた屋根がついていて雨が降っても濡れることが無いように保護されています。 閉じた扉から中を覗くと目の前に大きな石造りの五輪塔(2.7m)があってびっくりしました。 「この廟屋の建立は秀行没年の1612年頃と考えられる。」と説明があります。
 また、公園内には館薬師堂があります。このお堂も蒲生家が関わっています。説明によれば、
「秀行の跡を継いだ忠郷は幼少(2歳)の頃 病弱でしたが北山薬師堂で護摩祈祷を行い、その御利益によって成長できたことから引真院の境内に瑠璃光薬師堂を造営し後に館薬師堂と呼ばれるようになった。現在も行われている"二つ児参り"は上記伝承に因むもので2歳児の無病息災が祈願される。現在のこの建物は引真院の主要御堂であったと思われる。」とあります。若松三十三観音第27番札所
   館の花 盛りの祈りはよもの山 静かに雲も空に棚引く
まさに本歌にぴったりの場所でした。 左三つ巴

蒲生秀行廟

廟の左には会津磐梯山が見える(写真2)。

館薬師堂

薬師公園内には遊具やゲートボール場があって子供連れが遊びに来ていました。

 戦国時代の会津
少々くどいかもしれませんが、戦国時代に会津を治めた蘆名家、伊達家、上杉家、そして蒲生家について書籍「会津藩 野口信一著 現代書館 2005年」を参考にまとめました。
〇伊達政宗と秀吉
蘆名については 旅を楽しむ「会津本郷の山城」に詳細を記載しました。さらに「天海と会津高田」でも記載しましたように、天正17年(1589)摺上原(Suriagehara)の戦いで蘆名軍は伊達政宗に大敗して滅亡してしまいます。 そして、伊達政宗は念願の会津入りを果たします。しかし、秀吉への参陣を決めた政宗は小田原で幽閉され会津を没収、元の米沢に戻されてしまいます。 天正18年(1590)に天下統一を成し遂げた秀吉は、奥州の支配を自ら指示するために会津黒川(現在の会津若松)に来ています。その行程は白河街道から勢至堂峠を越えて唐沢、福良を通って黒森峠を越え、背炙山を越えて黒川に入りました。勢至堂峠は20年ほど前まで狭い悪路の峠道で通過するのに時間がかかったのを覚えています。現在は勢至堂峠も黒森峠もバイパスのトンネルが開通して峠を意識することなく通過してしまいます。
〇蒲生氏郷
秀吉は興徳寺を御座所にあてて検地や刀狩りの命を出し、会津の領主に蒲生氏郷を抜擢します。前任地の松坂から移った氏郷は七層の天守を持つ城を築き鶴ヶ城と名付けました。さらに新たな町割りで城下を整備しました。 また、氏郷は故郷近江の日野から商人や木地師、漆器や酒造りの職人を呼び寄せ、城下町とともに現在の会津の基盤を築いたと言われています。会津漆器や会津本郷焼の歴史はここから始まっているのですね。 氏郷は文禄4年(1595)に40歳の若さで病死してしまいます。
〇蒲生秀行の左遷
氏郷死後、嫡子13歳の鶴千代(後の秀行)が跡を継ぎます。秀吉は家康の娘 振姫を正室として娶あわせました。しかし、若い秀行の家臣同士の勢力争いがたびたび起こるようになり、慶長3年(1598)に会津を没収され宇都宮18万石に移されてしまいます。新たに上杉景勝が会津領主に任命され春日山城から会津に移ります。
〇家康の台頭と上杉景勝
秀吉の死後、上杉景勝は対家康のため会津若松に新たな城 神指城(Kouzashi-Jyo)に着工しますが未完で中止します。そして、関ケ原の戦いの結果、上杉家は会津90万石を没収されて米沢30万石に移ります。
〇蒲生秀行の返り咲き
慶長6年(1601)秀行が宇都宮から会津領主に返り咲きます。しかし、家臣団の内紛が続いてしまいます。秀行は慶長17年(1612)30歳の若さでこの世を去ります。その後、子の蒲生秀郷、忠知(Tadatika)も若くして亡くなり蒲生の血筋は絶えてしまいます。今回はここまでです。