小峰城の石垣
堀と小峰城

丹羽家と白河小峰城

2022年8月投稿

 はじめに
蓑輪諒の「うつろ屋軍師」という時代小説を読みました。この本は、信長の二番家老であった丹羽長秀の家臣で空論屋三石(UturoyaSanE)という異名をとる江口正吉のエンターテインメント的な物語です。豊臣秀吉の時代になると丹羽家は政略によって没落していまいます。家臣の江口は丹羽長秀亡き後も嫡子の長重を智力で支えて奮戦しますが、関ケ原の戦いで西軍についたため長重は改易になり丹羽家は滅亡します。江口は他家に仕官します。ところが、丹羽長重はわずか3年後に大名に復帰します。大阪の陣の後詰であった長重の陣中に江口が戻り再び戦うという物語です。その後、長重は将軍秀忠によってその功が認められ、陸奥棚倉に五万石を与えられ、さらに白河に加増転封になります。
私は、白河城というと戊辰戦争の白河口の戦いで落城するといった史実のみを知っていてあまり良い印象を持っていませんでした。調べてみると、現在の白河小峰城の遺構は丹羽長重によるもので、寛永4年(1627)に十万石余りで棚倉より入封した長重が幕命により大改修を行い寛永9年(1632)に完成させたということでした。また、白河市内には長重の廟所があることを知りました。
2022年6月に白河を訪ねました。 小峰城のロゴ

 丹羽長重の霊廟と墓
丹羽長重の墓は白河市街の外れの小南湖の奥の中腹にあります。小南湖という池は水が澄んでいて蓮の花が咲いていました。入口から見ると小南湖は奥に行くにしたがって狭まっていて大木があってなかなか幻想的な景観です。 小南湖に沿って苔むした道を奥に行くと大きな燈籠がにょきにょきと何本も立っていて、長重の霊廟とその裏に大きな墓がありました。昨年訪れた白河の関のように冷気がとどまっていて神聖な雰囲気です。何本か倒れた燈籠があって、おそらく最近の地震によるものかと思います。

朝の澄み渡った小南湖

この奥に長重の墓があります。

神霊の依代

燈籠の向こうに霊廟が見えます。
霊廟と墓のまわりにはたくさんの灯籠が---主君を守っているようです。

 小峰城を巡る
ともかく石垣が立派なこと!清水門からの観る正面の石垣は横方向に広く高さもあってなかなかのものです。本丸の台地に上がる気持ちを抑えて、まずは本丸を形成する石垣の周りを一周することにしました。西面や南面の石垣の下は広い緑のスペースになっていて、ゆっくり休むのにちょうど良いと思いました。中学校の林間学校で生徒が休憩するのに良い場所かもしれませんね。
さて、正面に戻り、狭く曲がった石段を上がって桜之門跡を通って本丸の台地に上がります。前方に平成6年に復元された立派な前御門(MaeGomon)と、奥の高台には平成3年に復元された白亜の三重櫓(SanjyuYagura)が現われます。
 急な石段を登って三重櫓に入ります。内部もなかなか楽しめました。見学は無料です。この三重櫓は古文書や発掘調査によって忠実に木造建築で再現されました。北側の張り出しには石落としの穴や、弓矢、鉄砲を打つための狭間(Sama)があります。最上階に上がる階段の急なこと。階段の手すりに沿って太いロープが設置されていて、ロープを掴んでまるで山登りの急登のようです。もちろん最上階からの景色は素晴らしいです。
すでに関東地方は梅雨に入っており天気はどうかと思っていましたが、少し無理をして白河に来てみると小峰城は晴れていました。

小峰城の地図

石垣を楽しむ

写真は清水門から見た正面の石垣でその幅と高さに圧倒されます。
写真2は本丸(桜之門)への上がり口付近で、出入りのある面白い構造です。
写真3は帯曲輪門付近の石垣で道は狭く複雑な構造です。確か奥は袋小路になっていたと思います。
写真4は南面から西面に向かう稜線で石垣の下は遊歩道になっています。

いざ本丸へ

写真は桜之門跡を通って本丸に上がる石段です。
石段を上がると草地の本丸が開けます(写真2)。
写真3は三重櫓の脇の塀に設けられた狭間(Sama)です。弓矢を使うための長方形の箱狭間と鉄砲用の三角の鎬(Sinogi)狭間が交互に設けられています。
写真4は三重櫓の最上階です。

復元された前御門と三重櫓

前御門からの景観です。

美しい堀と三重櫓

清水門の右側の堀は落ち着いた雰囲気があって好きです。
白河小峰城 いかがでしたか。