高取焼の歴史
2022年5月 投稿
図書館でたまたま手に取った上野(Agano)・高取焼の本を見ると、高取焼は筑前藩初代藩主 黒田長政が文禄の役の帰国の際に朝鮮から陶工・八山を連れてきて焼かせたものと伝わるとあります(越前国続風土記)。興味が湧いて、さらに調べて見ると高取焼の歴史はかなり面白いことがわかりました。私は唐津焼が好きで唐津の窯場を訪れたことがありますが、同じ九州の高取焼や上野焼をまったく知りませんでした。
本ページの内容は、主に福岡市美術館叢書5「筑前高取焼の研究」(平成25年発行)を参考にしてまとめたものです。
また、上野・高取焼の研究を長年されていた高鶴元氏の作品や高取焼の流れをくむ現代の唐津焼も掲載しました。
黒田家の家紋
宅間窯と内ヶ磯窯の製品(古高取)
高取焼の御用窯としての窯は永満寺・宅間窯であると推測されている。宅間窯(直方市)は福岡藩の端城の1つであった鷹取城の南山麓に位置しており、割竹式登り窯であった。
宅間窯に続いて慶長19年(1614)に開かれたのが内ヶ磯窯である。内ヶ磯窯の製品は、同時代の備前、伊賀、織部などと造形的にきわまてよく似ており、大阪や京都で流行していた桃山様式のものであった。
大阪城遺跡や京都市中央区三条の遺跡から出土する大量の桃山陶に混じって、茶碗、水指、花入れ、向付といった内ヶ磯窯の遺品が発見されている。たしかに、「新・桃山の茶陶」 2018年根津美術館発行の図録を見ると、京都の三条瀬戸物屋町から出土した桃山陶の中に唐津焼に混じって掛け分けの歪んだ茶碗、飴釉に近い色の花入や水指といった高取焼を見つけることができる。ここで興味深いのは、
●何故、当時上方で流行していた桃山陶の意匠が、九州の極めてローカルな高取で突然出現したのか?
●そして、九州のやきものが遠く離れた京都や大阪にどのように大量に流通したのか?
という疑問である。
●桃山陶と唐津焼高取焼
2代筑前藩主黒田忠之は、唐津藩の寺澤志摩守廣高(1563-1633)の家臣として仕えていた五十嵐次左衛門を召し抱え、朝鮮からの陶工高取八山とともにやきものの生産に就かせた。五十嵐次左衛門は、瀬戸美濃の製陶に明るく、博多の豪商の白水・神谷宗湛とも親しく茶の湯の交わりをもつ間柄であったと言う。したがって、内ヶ磯窯の製品にみられる歪や変形を特徴とする桃山様式の造形は、五十嵐次左衛門の一派が新たに高取に合流してもたらされたものであると考えられる。
このことは、製陶の技術面からも、たたら作り(平らな板を使って形をつくる)による成形法や、さや鉢(エンゴロ)を用いた窯詰など当時の九州の他の製陶地では見られない技術が高取で採用され、かつ、それらは瀬戸、美濃では一般的な技法であったことから裏付けられている。
さて、唐津藩の寺澤志摩守廣高は永禄6年(1563)尾張の生まれで豊臣秀吉に仕え、側近の一人として朝鮮出兵の時に歴史に登場する。廣高は、肥前名護屋城築城(1590)に際して*山里丸の普請を分担し、さらに朝鮮出兵の機関、後備の政務方の中心人物として長崎奉行、名護屋城奉行の任務を果たした。また、文禄元年(1592)から1年余りを古田織部と共にした。お互いに利休門下の茶人であったことから、やきものについての意見交換は頻繁になされたと思われる。その廣高の家来であった五十嵐次左衛門が唐津から高取に行ったのである。
*山里丸(YamazatoMaru)とは--- 城館内に設けられた山里の雰囲気をもつ数奇屋座敷で娯楽や休息のために造られた。
●九州のやきものが京都、大阪に大量流通した背景
大阪、京都いわゆる上方における唐津焼、高取焼の流通と隆盛の一端には、神谷宗湛を代表とする博多商人と堺の天王寺 津田宗久らとの連携が関与していると思われる。神谷宗湛は、唐津を活動拠点の一つとしており、唐津藩の御用商人として藩内物産の上方への流通販売、鉄砲や火薬の軍事物資の堺からの調達などの経験と実績のある豪商であった。
唐津焼は、豊臣後期(秀頼の時代 慶長3年~慶長20年)に盛んに京都、大阪、堺に運ばれ消費された。この時期、大阪城下は秀吉死後の政情不安定とは裏腹に大都市としての拡張整備にともない かつてない経済的発展を遂げつつあったという。唐津焼や高取焼はまさにこの時代に飛躍的な成長を遂げた新興のやきものであった。
なお、志野は唐津とほぼ同時期に出現する。織部は豊臣後期の後半になってようやく出てくる。
さらに、九州で磁器の伊万里焼が出現するのは、徳川初期の元和8年(1622)のことである。
◎「黒田忠之の茶器収集と将軍家との関係」もなかなか面白い
筑前の2代目藩主となる黒田忠之は元和9年(1623)に襲封する以前から茶入れを中心に茶器収集に並々ならぬ熱意を持って取り組んでいた。襲封後には神谷宗湛が所持していた名物の茶入れ「博多文琳」を長政の遺言であるという言上で召し上げた。その対価は実に知行500石、黄金2000両であったという。そして、内ヶ磯窯(五十嵐次左衛門ら)や後述する白旗山窯にて、将軍徳川秀忠、家光に上覧するための茶入れと茶碗を特に念をいれて焼かせた。黒田忠之は、高取焼の茶入れや茶碗を政治的に利用するための道具と考えて情熱を持って窯場を直接指導した。
さて、2代将軍徳川秀忠は歴代の将軍の中でほとんど唯一といってよいほど茶の湯を好んだ人物であったという。徳川秀忠は数寄屋御成(Sukiya Onari)という新しい**御成を生み出し、重要な儀式である将軍御成に茶の湯を取り入れて改変した。寛永4年から有力大名への茶の振る舞いが始まる。これは茶の湯を一段と深めつつある黒田忠之にとっては又とない好機であったと思われる。
**御成(Onari)とは--- 将軍家と大名との主従関係を確認するための重要な行事であり、将軍が臣下の邸宅を訪問する。御成にあたっては、細かい指図や屋敷内の調査を徹底的に行い、大規模な江戸屋敷の改装や諸道具の新調など多額の費用と労力が費やされた。御成先の財力の消耗や武具見分も目的であったという。
高取の流れを汲む現代陶器
歴史解説の途中ですが、ここで現代作家のやきものを見ていただこうと思います。
桃山時代の高取焼には藁灰釉と飴釉とを片身替わりに掛け分けた茶碗や向付があります。この掛け分けはもともと桃山期の美濃焼 特に織部の技法に倣ったものと思われます。唐津焼には片身替わりの施釉法はおそらく作例はなく、たたら造りのものも見当たらないことから、上述した五十嵐派によって高取にもたらされた技法と考えられます。
岡本作礼 掛け分け結文向付
内ヶ磯窯の古陶器にこれと全く同じ意匠のものあります。 作礼氏はそれを手本として再現したのではないでしょうか?
岡本作礼 掛け分け舟形向付
藁灰釉と飴釉の掛け分けが美しい向付です。初めて作礼窯を訪問したときに購入しました。
高鶴元 藁釉掛け分け手付き皿
この作品は径25cmと大きく、肉厚に造られています。
味のある鉄絵が描かれ、透明釉と藁灰釉が掛け分けされ、特に藁灰釉の釉調が美しいと思います。全体にずんぐりとして暖かみのある良い作品です。
高鶴元氏は、長年 上野・高取焼の研究をされていました。現在はアメリカに永住してオブジェを中心に作陶されています。