天海の故郷 会津高田
2021年9月投稿
2021年1月に「会津本郷の山城」にて蘆名家と向羽黒山城の歴史を紹介しました。最近読んだ 堀和久著「天海」に、芦名家の盛衰の歴史が詳細に描かれていて楽しめました。
芦名家の一族として会津高田に生まれた 舟木兵太郎(後の天海)は、11歳で会津高田の龍興寺に出家します。兵太郎の叔父が 後に黒川城主として会津盆地に盤踞した芦名盛氏です。兵太郎は諸州を行脚して、比叡山の實全和尚の薫陶を受けますが、元亀2年(1571年)9月 信長による比叡山の焼き討ちを体験します。
一方、叔父の盛氏は、妹と二階堂盛義との間に生まれた盛隆を世嗣として迎えた後、天正8年(1580年)に60歳で亡くなります。その後、盛隆が臣下に殺され、芦名家は常陸の佐竹義重の次子義広を迎えます。そして、天正17年(1589年)6月 その義広が伊達正宗に(摺上原の戦い)に敗れ 実家の常陸に逃げた後、伊達正宗が黒川城に入り芦名家が滅びるまでの歴史がつづられます。このとき義広主従が落武者として常陸に逃れるとき、天海は甲冑に身を包み 行く先々で20代の義広を護衛したと伝わっています。
天海は、徳川の時代になって比叡山の浄化や日光東照宮の造営を行い、家康、秀忠、家光の心の師となって108歳の天寿を全うします。
2021年6月の梅雨入り前の初夏を思わせる暑い日に、会津高田(現在は会津美里町)を訪ねました。
1.龍興寺(Ryukouji)
本堂
天海が出家した寺という。古い寺を想像していましたが、狭い敷地に浮身観音堂と新しい本堂がある寺で少々がっかりしました。本堂の扉には「自由に入って拝観して良い」との案内があったので入ってみると、内は時代を感じる厳かな佇まいであって外と内ではこうも違うのかと思いました。
御朱印をいただく
今回、亡き父の御朱印帳を持ってきており、少々態度の横柄な坊主に御朱印を依頼しました。しかし、御朱印を描いて、本堂でお経を上げてくださってから手渡してくれたのは、高齢でやや耳が遠い、いわゆる”向勢”の当主でした。
浮身観音堂
12歳だった舟木兵太郎が夢のお告げで浮身(うきみ)というところの水田を掘ったところ、土仏の十一面観音像を発見したと言われています。
2.伊佐須美神社とあやめ苑
私が初めて伊佐須美神社を知ったのは、早乙女貢の「淡雪物語」を読んだときです。この小説は、芦名盛興の室に視点をおいた作品で戦国乱世を攻略の手段にされながらもしたたかに生きる女性を描いています。特に、伊佐須美神社の社が美しく描かれており、いつか訪れてみたいと思っていました。
鳥居から桜門へ
会津高田には朝7時に着いたので 境内に人はいなくて静かでした。大鳥居、桜門は立派ですが、その沿道にはやたらと看板が目立ちます。桜門をくぐった先にあるはずの本堂と拝殿は、2008年10月に大火事で焼失していて小さな仮殿に移されていました。跡地には石の基礎のみが残っていました。再建のための寄付を募る看板が目立っていて、少しむなしい思いがしました。
あやめ苑へ
どちらかと言うと俗化されている境内をそうそうに引き揚げて、向かいの「あやめ苑」に行きました。6月15日からの「あやめ祭り」は、コロナウイルスの影響で再延期になったようです。私が訪問した6月9日には、全体の3割ぐらいは咲いていて楽しむことができました。地元の人も数人来ていて、同様に写真を撮っていました。150種のあやめが植わっているそうですが、色の違い以外はみな同じ品種に見えてしまいます。
那須町から寄贈された「ナスヒオウギアヤメ」
昭和38年に宮内庁の職員が発見し、昭和天皇が研究され名づけられたアヤメとの説明があります。
3.法用寺 会津平野をゆったりと見守る古寺
会津で2番目に古い寺で、会津高田の背後の山すそにあって会津平野を見渡せる三重塔があるというので行ってみました。私の勝手なイメージとはかけ離れていた伊佐須美神社、龍興寺でしたが、法用寺は会津にひっそり佇む古寺といった雰囲気でとても良かったです。
法用寺に向かう
会津高田の街から郊外に出て、西側に広がる山の麓に法用寺はあります。遠くから三重塔が見え感激します。
小さな仁王門
先ず、古びて朽ちかけた小さな仁王門があります。本来あるべき金剛力士像は他の場所に保管されているとのことです。写真は仁王門の柱ですが 凄いでしょう。右の奥には、胴鐘(室町時代のもの)を吊るす建物が見えています。この建物も古びていますが、やたらと大きくて、胴鐘はとても高い位置に吊るされています。
本堂
正面には本堂がそびえています。小さな仁王門から想像できないほと大きな建屋です。しかも、古色蒼然としています。粗い木肌の濡れ縁に腰かけて休みました。静かな佇まいで、すっかり好きになってしまいました。
本堂からの三重塔
本堂の濡れ縁からは三重塔の相輪がそびえています。
三重塔
三重塔の高さは20mあります。こんなに古くて大きな建物が残っていることにびっくりしました。何かの拍子に倒壊するのではないかと あらぬ心配をしました。そうです。この塔は 3.11の大地震を潜り抜けてきているのです。
6月の暑い時期でしたので、会津平野はけぶっていて磐梯山も見ることはできませんでした。早春や秋の空気がすがすがしい時期に再び訪れてみたいと思いました。
次回は、法用寺から会津高田の背後の山を通って柳津に出てみたいと思います。