猪苗代 土津神社と三忠碑
2024年8月投稿
土津神社と三忠碑
6月初旬、梅雨入り前の晴れ間を縫って猪苗代にある土津神社(Hanitu Shrine)と、摺上原(Suriagehara)の古戦場にある三忠碑に行ってきました。なお、土津神社から三忠碑までは自動車で6分ほどの近くにあります。
土津神社と保科正之公墳墓
「はにつ」と読める人は少ないのではないでしょうか?
土津神社は会津藩初代藩主の保科正之公を祭る神社です。保科正之公は徳川時代の初期において、三代将軍の徳川家光を補佐して素晴らしい政治を行い、さらに若い四代将軍 徳川家綱を後見人として支えた人です。その業績について本頁の最終章に自分なりにまとめてみましたので参考にしていただければと思います。
カエルが見守る男坂
水量の豊富な水路(土田堰)にかかる神橋を渡って境内に入ると、左に小さな滝があって石のカエルが鎮座しています。
姿は見えませんが頻繁にカエルの鳴き声が聞こえます。本当にいるのでしょうか。
男坂という急な石段の両側には会津藩や新選組の旗が立っていて、いやがうえにも気分が盛り上がります。
風鈴の下をくぐって拝殿へ
不思議なことに妻が通ろうとすると急にざわついて風鈴が鳴り出しました。
拝殿で参拝をすまして御朱印をいただくことにしました。
御朱印
土津神社の御朱印と奥の院のものがありました。
保科正之公の墳墓
土津神社の境内を通って、さらに松並木に沿って石畳を上がっていくと、うっそうとした森の中に奥の院と呼ばれる保科正之公の墓があります。正面に立派な門があって敷地内には入れません。
写真2 -- 奥の円墳の頂上にある八角形の鎮石が正之公のお墓です。
三忠碑と顔真卿の文字
摺上原(Suriagehara)の地は、天正17年(1589) 蘆名義広と伊達政宗との決戦が行われ、蘆名家が大敗した場所です。この戦いの後、伊達政宗は念願の会津入りを果たし、蘆名家は滅亡します。
後に、会津藩八代藩主の松平容敬は摺上原合戦での蘆名家の金上盛備、佐瀬種常とその子常雄の忠誠のさまをたたえ三忠碑を建立しました。碑文の全437文字を唐の書家 顔真卿の書体を集めて刻まれたそうです。
今回、史跡巡りだけでなくて、この顔真卿の文字を見たいと思いました。書体の背勢(Haisei)、向勢(Kousei)の様は、やきもの造りにも繋がっているからです。なお、顔真卿の書は背勢の中に向勢があると言われています。
● 顔真卿についての本
「王羲之と顔真卿」書の歴史と名作手本(魚住和晃編 講談社2009年)がわかりやすくて良い本だと思います。
摺上原の古戦場に建つ三忠碑
この石碑は平板ではなくて見る角度によって形がダイナミックに変化します。
顔真卿を楽しむ
今回の旅で楽しみにしていたのが顔真卿の文字です。
写真1,2は石碑の下部の文字です。マクロレンズで大写しにしてみました。どうですか?
写真3は石碑の最上部ですが、高さがある上に石の表面がシミなどで変質しており文字を読みづらいです。
土田堰(Hanita Zeki)
土津神社の神橋の下を流れる水量の豊富な川、そして三忠碑の背後を流れる水路を地図で調べると繋がっていて土田堰という。そして、その歴史を調べてみるとこれがまた面白い!
1673年、保科正之の五男 保科正純は父を見祢山(MineYama)に葬りその霊を祭るための土津神社の建立を、家老の友松勘十郎氏興に任せました。氏興はこの神社を永代まもっていくために田を開き、荒地の摺上原を開拓するための水を引くことを考え、人夫35万人、金子1000両を費やして檜原川の上流より12Kmの水路を開削しました。これが土田堰です。土田堰によって200石の水田神領を得たそうです。
(注)堰 (Seki)とは--- 川からの水をひきいれるために川をせき止める構造物をいう。
土田堰
写真1は土津神社の入口の神橋の下の流れです。
写真2は三忠碑のすぐ裏を流れる土田堰です。松の木の左の石碑が三忠碑です。